新しい戦前と呼ばれる時代を見据えた、怒りと憂いの込められた映画でした。
昨年は「君たちはどう生きるか」や、「ゴジラ-1」、「ゲゲゲの謎」、「窓ぎわのトットちゃん」など、戦中・戦後を舞台にした作品が多く見られた一年でしたが、この流れはやはり、今この国が進もうとしている先がかつての過ちの轍をなぞっている事に対する危機感が呼び込んだのだろうと思います。
ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナに対する民族浄化。世界情勢が混迷と分断、暴力の時代へと逆行しつつある中で、我々が暮らすこの国もまた、やせ細る経済や生活をよそに防衛とは名ばかりの軍備増強に舵を切っている。
そんな時代だからこそ、多くの作り手達は作品を通して過去を省みることを訴えています。
本作もまた、それに連なる一本であると同時に、傑出した生々しさと不穏さを放っていると感じました。
輝きの無い眼や、判然としないうわ言、怯える獣のような震えた懇願、肉のようにしな垂れた体。
生きている筈の、危険が遠ざかった筈の、しかし確実に壊されてしまった人たち。その行動の端々から滲む恐怖と絶望の色が、彼らが見てきた戦争の実像を可視化することのないまま、しかし十二分に伝えてくる。
2015年の「野火」においては容赦のない人体破壊描写と凄惨な戦地の様を描いた塚本監督ですが、本作はあくまでも各々の背景に戦争の記憶があるという間接的なバランスに留められています。それを成立させているのは、これまでのキャリアにおいてホラーも手掛けてきた塚本監督ならではの不穏を醸し出す巧みさが大きく機能しているのでしょう。
中盤に登場する、恐らく蔵のような家屋の柵付きの窓。その隙間から垣間見えるとある人物の怯えた様子を映す引きの画は明らかにJホラー的恐怖演出を彷彿とさせます。このインパクト一つで、その人物が戦地で見たものを直に描かれるよりずっと、何か生々しく恐ろしいものの片鱗を覗いた気分にさせられてしまいます。
とある事象が引き起こした破壊や衝撃について知る時、それが進行する様子や発生した瞬間よりも、過ぎ去った後に残る爪痕を見る方がずっと恐ろしく破壊の輪郭を浮き立たせることがあります。本作は意図してそれを狙って撮られた非常に巧みな戦争映画であると感じました。
また、本作の巧みさは作劇においても発揮されています。本作は戦災孤児の少年の目を通して戦後の人々を描く物語であると同時に、彼が所持している銃が誰の手に渡り、どのように使われるかの変遷を描いた物語でもあるのです。
自衛の為にと握られていた銃は、それを用いた金稼ぎの為に運ばれ、復讐の道具となり、最後は自死の手段になる。
殺傷する為の道具を手にする事がどのような結果を招くのかを描いた物語の軌跡はある種の寓話のようで、終盤、居酒屋の女主人が震えた声で少年に訴える、
「あなたはそんな物を持たないで、生きて行くの」
という祈りは、我々観客の一人一人に投げかけられる映画からの切実な祈りのように感じられました。
森山未來さんが演じる傷痍帰還兵の手慣れた拳銃の扱いが一見格好良く見えるのも兵器や軍隊の危うい求心力を思い起こさせ、「片腕で装弾数確認するのカッコよ!!」などと一瞬無邪気にアガってしまった自分に居心地の悪さも感じた映画体験でした。