料理とは、混沌から一つの調和を生み出すことである。
という文章を以前、どこかで読んだ記憶があります。小説の一節だったか、どなたかのエッセイであったか定かではありませんが、まさに言い得て妙だなと感じたものでした。
まな板の上に並べられた幾つもの食材は、その様だけではまるでまとまりのない混沌とした様相であるのに、刻まれ、炒められ、あるいは煮込まれていく内に、一つの料理という調和に結実してゆく。
そしてそれを導く料理人はまるでオーケストラの指揮者や画家、映画監督のように、全てを把握しまとめ上げる役割を担う。
料理を、他の芸術が訴えかけることの出来ない味覚や嗅覚にまで届く”五感全てを想定したアートだ”と考えると、流麗な所作で調理を進める手元を丹念に追って行くオープニングシーンがどこか不思議な緊張とワクワクに満ちていて、少しも退屈しないのにも納得が行きます。
映画という動的なメディアにとって、絶えず変化し動きながら進行して行く調理というアクションはとても相性が良いのでしょう。
本作の物語はあらすじや予告を見聞きした段階では、
「皇太子をもてなす為に美食家と料理人コンビが家庭料理で挑むお話なのだなぁ」という漠然とした印象を持っていたのですが、実際には二人の愛、喪失と再生の物語という印象が強く、非常に詩的で繊細な映画であったのがとても好みでした。
調理場の炎の柔らかで温かい暖色や、野菜畑の緑や自然の花々の彩り、静かで穏やかな夜の藍色。どのカットを切り取っても絵画のような美しさで、料理を囲む人々の笑顔と合わせて映画全体に多幸感をもたらしていました。
食は生命が生きてゆく上で絶対に逃れられないある種の義務のようなものですが、同時に味覚という機能が備わっていることでその義務を至福のひとときにする事も出来る。
お腹が空くこと、食べたいと思えること、美味しいと感じられることは体が生存を望んでいる何よりの証拠であるし、生きることそのものなのだと思います。
ウージェニーを失い、食事を拒むようになってしまったドダンにかつての輝きを取り戻させたのはやはり至福の一皿であったように、食には命を繋ぎ、心さえも上向かせる力があるのだろうなと感じました。
私もさほど上手ではありませんが、料理は好きで男の一人暮らしでもなるべく自炊を心掛けています。予定のない休日はスパイスカレーを作ってみたり、パスタ用のトマトソースを沢山作り置きしたり。
元々は忙しく余裕のない母の代わりにと思って覚えた料理でしたが、自分の為に時間をかけて料理をするのは、まるで自分の命を慈しむような時間に思えてとても好きです。
料理は悪意で出来るものではありません。食を与えるという行為は相手を”生かす”為に他ならないし、心底億劫でも、面倒でも、味なんてどうでもよく思えても、誰かの為に料理をするのは否応なく愛の行為になる。
見終えた後、そんな事を考えながらいつもより手間をかけて料理がしたくなった映画体験でした。