
こんなに底意地の悪い映画は久々に観ました・・・。
共感性羞恥と自分は果たしてどうだろうか?という疑念が鑑賞中ずっ~と、不安の渦のように腹の中を廻るので胃が捻転するかと思うほどでした。
讃えられる自分、慈しまれる自分、悼まれる自分、突然省みられる自分。
誰もが一度は心の中で想像し、己を慰めて来たであろう甘~い自己憐憫の妄想(自分の葬式で泣く人とか想像したわ~!)が、その幼稚な拗ね根性をマシマシで画面に炸裂するので、
「もう分かったって!ごめんなさい!!!」
と逃げ出したい気分になります。

よく見りゃ誰も何もしていない(盗みはアートなのか???)のに、マウントとアピールだけは激しいコミュニティの空虚さには、「アメリカン・サイコ」のエリート階層の空っぽさを思い出しつつ、心の中の和田アキ子が、『あなたは何をしてる人なの?』と画面に何度も問いかけていました。
いいからなんか作るなりしろよ!!!
何者かになりたい。その渇望の裏にあるのは、「自分を認めることが出来ない」という自己肯定の飢餓状態なのだと思います。
しかし、他者から注目され、尊敬され、慮られる存在になれば心の飢えが満たされるのかと言えば、それは甘い見積りであると言わざるを得ません。揺るぎない自信というものは、他者評価に依存するものではなく、己の中に根を張るもの。
他人が己をどのように評価しようとも、そう簡単には崩れない、経験に裏打ちされた自信でなければ、流転する他者評価に振り回されてしまうでしょう。
その度に脳内で、次の憐憫や尊敬をどうやって掠め取ろうかと夢想していては、空虚なサイクルから一生抜け出すことは出来ません。
自分を認める為の第一歩は、「自分は何者でもない」という現実を受け入れることから始まるのだと思います。
他人と比較して、何も持っていなくても、特段出来ることが無くても、必要とされていなくても、自分だけはゼロ状態の自分を認めてあげなければならない。そうやって自己存在の根本を自分で支えてあげることで初めて、自信を積み上げて行くことが出来るのです。

このネット社会では、天才や知識人、聖人かと思うような善人でさえ、2秒もあれば辿り着けます。
時代の寵児は毎日生まれては古びて行くし、新鋭なんて呼ばれる若者も気付けばあっという間に年下。
そんな中で、自分を認めてゼロから経験と自信を積んで行くというのは簡単なことではありません。素晴らしいモノにすぐにアクセス出来る時代は、自分のちっぽけさや不出来すら一瞬で思い知らされる時代でもあり、それは我々をあっという間に冷笑と虚無主義、自己憐憫の屍のような人間にしてしまう。
私の祖母はよく言っていました。『上見りゃキリなし、下見りゃキリなし』と、こんな時代だからこそ、自分は何がしたいのか、何を得たいと望んでいるのかを見つめる事が大切なのだと思います。
ヨルゴス・ランティモス監督作を彷彿とさせるような不穏なズームや、現代的でありながらも寓話性を持った完成度の高い脚本。物語のエグみを際立て、妄想と現実をバイオレントに断絶する編集センスなど、既に卓越した手腕が垣間見えるクリストファー・ボルグリ監督。次回作はアリ・アスター製作、主演はニコラス・ケイジとのこと。早くも公開が待ち遠しいですね!
SNSと多様性の現代で、どこまでも肥大し暴走する自己愛におぞましさと、ほんの少しの後ろ暗い共感を覚えた、まさしく劇薬な映画体験でした。