
人が嘘をつくのには、様々な理由があります。
悪意、保身、虚飾。そのどれもがありふれていて、身に覚えのない人など、そう多くはいないでしょう。
私も幼いころから嘘つきでした。
最も古い嘘の記憶は、「近所で変な大人に声を掛けられた」という嘘です。
三兄弟の次男に生まれ、長男ほど重んじられも、三男ほど可愛がられてもいなかった私は大人の気を引いて注目されたかったのでしょう。
結果、近隣の親達が集まって警戒態勢を敷く騒ぎになり、何度も、「本当の話か?」と問う母に、嘘だったと言えないまま、時が解決するのを露呈の恐怖に苛まれながら待つことになったのでした。
その後も沢山嘘をつきました。
騒ぎになるような嘘こそつかなくなりましたが、出来もしないことを出来ると言ったり、知ったかぶりをしたり。それがかえって人を遠ざけてしまうのだと気付けるまで幾度も繰り返しました。

そんな私にとって、本作の、失踪した夫・悟の独白にはとても他人事とは思えない奇妙な親近感を覚えました。
嘘で作り上げた人格の上に、時間と共に濃くなってゆく関係性がどっしりと堆積し、やがて身動きがとれなくなる感覚は私には恐ろしいくらい鮮明に思い出せるのです。
偽りで象られたアイデンティティがいつしか檻のように本音を閉じ込め、次第に人格と癒着してどれが本当の自分だったのか、自分にさえ分からなくなってゆく。
そんな葛藤が極に達してコミュニティを逃げるように出奔した経験が私にもあります。
突然失踪した悟の真意は明言されないけれど、そこかしこで微かに示唆されているように見える”子供”というキーワードにも、嘘を吐き続けた人間だからこそ分かる、
「逃げるならここだよね」
という共感がありました。
生身の自分で他人と向き合えず、偽りを演じ続ける覚悟もない人間に、親になるなんて引き返しようもない決断は取れません。

しかし、一方でかなえもまた、悟の失踪に困惑と傷心が拭えない人物でありながら、自身にも”取り返しのつかない嘘”の過去があり、その記憶に忘却で蓋をしていた人物でもあります。
幼く、無力であった少女があまりにも過酷な真実を前に、己の記憶すら欺いて心を守っていた。という展開には、人は生きてゆく為には嘘すら手段にせざるを得ない生き物なんだろうと思わされました。
それは確かに褒められたことではありません。欺けば人を傷付け、信頼を壊し、理解し合うことを困難にしてしまう。
けれど、そのありふれた悪徳をことさら強く糾弾出来るほど清廉な人間なんていないのもまた事実で、そんな弱い生き物だからこそ、恐怖や不安を押してでも分かり合いたい、本当の自分で向き合いたいと思える人に出会えたのなら、それはとても幸せなことだろうなと思います。
ラストカット、散歩に出かけるかなえと少し遅れて後方を歩く堀の姿には、微かな希望に向けて開かれている印象を受け、私もまた大事だと思える人から嘘で逃げ出してしまわぬよう、心根を晒すことを恐れない人間でいたいなと思えた映画体験でした。