
無垢である事と、無辜である事は似て非なる全くの別物。
無垢という言葉には、自主性や自己認識が無く、上から見下ろす存在から勝手に抱かれている印象という感覚を受けます。汚れも邪気もないあどけない子供。そうであって欲しいという大人の共有幻想が生み出した概念。それが無垢なのでしょう。
実際の所、子供には汚れや邪気がないのではなく、何が善悪足り得るか、何が欲望の汚れであるかについて徹底的に無知で本能的であるだけなのだろうと思います。そして、何も知らないからこそ、無自覚に無辜を装える。

本作に登場する子供達は、心身の成長に伴い何が善悪かを学びとりつつある時期であるように見えます。
蟻の巣を一緒に破壊して微笑んでも、猫を殺すのは非道だと感じるなど、個人によってグラデーションのある曖昧なモラルの中で力や自意識は日増しに強まって行く。
その不穏さ、危うさが全編に張り詰めていて、ベンジャミンとの対立が決定的になる中盤以降は一瞬も気が抜けない不安感が映画を支配していて素晴らしかったと思います。
大友克洋のコミック「童夢」を下敷きに創作されたという本作は、同じく大友作品の「AKIRA」から色濃く影響を受けたジョシュ・トランク監督作「クロニクル」と非常に通じるものがあるように感じました。
どちらも子供達が主役になりサイキックバトルを展開する作品であり、トキシックマスキュリニティと孤独が引き金になりダークサイドへ堕ちて行く悪役の造形もとても近しい。しかし、このよく似ている二作。サイキックバトルモノとしての演出プランは割と真逆のアプローチを取っていて、そこがまたとても面白いと感じる部分でした。
「クロニクル」はPOV(ややズルい作りもあるが)方式で、クライマックスには多くの人々を巻き込みド派手なアクションを展開しますが、本作はあくまでも子供達の間でしか状況が進行せず、周囲の大人達は彼らに何が起きているのかを最後まで知る事はありません。クライマックスも人が溢れる団地の中庭で人知れず不可視のサイキックバトルが展開されるのみです。

この奇妙なテイストには、勿論「童夢」からの影響が色濃いのだろうと思いますが、いじめや悪事、喧嘩など、水面下で進行している子供達の秘め事にアクセス出来ないまま、しかし彼らを管理し庇護して行かなければならない大人達の不安感がサイキックスリラーとして比喩的に描かれているようにも感じました。
子供達から見た大人は理解がなく、頼れる存在では無い。大人から見た彼らのコミニュティは不透明で何が進行しているのか見渡すことが出来ない。
大人と子供の間にある不信感と断絶の物語として本作を見た時、ブランコで一人崩折れ生き絶えているベンジャミンの姿には悪が潰えたという完全懲悪のカタルシスよりも、ケアされ導かれるべき子供が人知れず悪になり死んでしまったという悲しみが拭えません。
彼が力を行使しているつもりが、いつしか力に引っ張られて苦しむ様子は、男児として育つ過程で私も感じて来た”マチズモに操作されているような窮屈さ”を思い出しました。
私の場合、身体性よりも今こうして活用しているような”言葉”を扱う力を誤まった形で行使して他者を傷付けてしまった記憶がありますが、その過ちや正しい使い方を指導してくれた大人の存在があってこそ、今の自分があるので、彼にそのチャンスがなかった事がやり切れないなと思うのです。
大人として、男性として、子供が自らの力に翻弄されている時、正しく導いてあげられるような人間で居たいなと思う映画体験でした。