
私にとってポール・ニューマンと言えば、やはりこの映画です。
私の個人史的な位置付けで言えばある種の聖典にも近いかも知れません。映画文化にのめり込み解説や映画評に触れるようになったのも本作がきっかけでした。
レンタルビデオ店で何気なく手にとって、「『暴力脱獄』だなんて、さぞバイオレンス溢れる映画に違いない!」と期待して、意気揚々と再生してみるとおよそタイトルからは想像もつかない内容で、
暴力はまあ、確かにあるのだけど、どちらかと言えば粗雑なホモソーシャルのじゃれあいというのが似つかわしい程度。劇中で行なわれる脱獄もコソッと逃げ出すくらいのもの。
思ったよりユルい映画でガッカリかもなどと嘆息しつつ見ていると、ポール・ニューマン扮するルークの飄々とした魅力に少しづつ興味が沸いて来ました。
囚人達のボスと決闘になり何度叩きのめされても立ち向かって行く姿や、厳しい刑務作業にゲーム性を見出してはしゃぐ姿。ゆで卵の大食いに挑戦するシーンではすっかり囚人達のスターになっている。そんな様を見て、一体、この映画は何を訴えようとしているのだろうかと惹かれつつも困惑している私がいました。
幾度も脱獄しては捕縛され、厳しい罰と拷問のような仕打ちを受ける後半のシーンでは、彼の心が折れてゆく様を見て、囚人達と同じように私の心の中で何かが萎れてしまうような悲しみが湧き立ちとても妙な気分でした。
どうしてこんなに胸が締め付けられるような気持ちになるのだろうと思いながらクライマックスまで見終えた後、私は生まれて初めて映画の解説を求め、町山智浩氏に辿りついたのです。
本作のテーマについて、私がいくら語っても町山氏の受け売りでしかないのでここでは割愛いたします(町山氏の『暴力脱獄』評を必ず聞いて頂きたいので・・・)。
私がその解説を受けて本作を再見し改めて衝撃を受けたのは、ルークは最初のシーンからずっと無意味な遊びに楽しみを見出して子供のように笑っているのだという点でした。
当時の私は、思春期特有の虚無主義真っ盛りで何をしても大した結果も望めなければ、意味もないのだと人生に不貞腐れていた時期だったので、本作を通して実存主義に触れたことで閉塞して見えた毎日が少しづつ開かれて行ったのです。
不貞腐れたように日々を生きる私の姿はまさに劇中の囚人達そのもので、ルークのカリスマに充実と自由への憧れを見ていたのでした。
それ以来、私の憧れはクールハンド・ルークです。彼のように飄々と自由と遊び心でもって明るく生きて行きたい。そう思うのです。
何をするにもコスパ、コスパと効率重視のさとり世代的諦念から私を救い出してくれた本作はこれからも折に触れて見返すだろう、私の人生の一本です。